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鹿島神社(かしまじんじゃ)   昔の膳夫神社跡(かしわでじんじゃ)
 
鹿島神社(かしまじんじゃ)
 雲陽誌に「小浜明神、タケミカヅチノ神をまつる・・・寛永6年(1629)の建立祭祀の日・・・人々群れをなし御供造酒を奉る」とあるので、古くから信仰の厚い神社であったようだ。
 タケミカヅチノ神は、古事記では天鳥船と共に出雲国伊那佐(いなさ)の小浜に降り大国主命との国譲りの交渉に成功したとされる武神で、茨城県鹿島神宮の祭神でもある。
 明治44年に膳夫神社を合祀する。境内に、稲荷社・火守社・荒魂神社等がある。
昔の膳夫神社跡(かしわでじんじゃ)
 古事記によると「国譲りの大国主命の条件を受けいれて高天原の神々は出雲の多芸志の小浜(武志)に立派な宮殿を造り水戸の神(水門の神)の孫の櫛八玉命(くしやたま)が膳夫(料理を含めた接待役)を掌り、姿を鵜に変え海中に入って藻や魚をとって料理し、土で器を造りもてなした」とある。
 武志には板御膳原(いたごぜんばら)という地名があるが関係があるようだ。度々の水害で、明治44年(1911)鹿島神社に合祀される。
 
 
弁吉女の墓(べんきちめのはか) 現在の膳夫神社跡
 
弁吉女の墓(べんきちめのはか)
 いつ頃のものかはっきりしないが、弁慶の母の墓として伝えられている。(雲陽誌)
 以前は、五輪塔であったようだが十数年前の耕地整理で田の中から現在地に移転ときは、すでに二輪塔であったという。
 出雲地方には、あちこちに弁慶にまつわる話があるが、学僧時代を鰐淵寺(がくえんじ)で過ごしたと伝えられているので、これと関連があるのでは・・・。
現在の膳夫神社跡
 
 
萬福寺(まんぷくじ) 要石(かなめいし)
 
萬福寺(まんぷくじ)
 臨済宗相国寺派 本尊 延命地蔵菩薩。慶安2年(1649)4月、天珪和尚を招いて開山始祖とされた。
 鳶巣城主宍道氏の祈願所であったとも伝えられ、戦国時代の末尼子・毛利の合戦の死者を弔うため創立されたとの説もある。本堂は昭和45年(1970)焼失、同48年に再建された。
要石(かなめいし)
 いつ頃かは不明だが、雲陽誌(1717年)にあるので古くから語り継がれてきたようだ。
 この石は、鹿島の要石と言われ、川の氾濫や地震、雷の被害を避け不安を取り除くために祀られたものと伝えられている。高さ約1.5m、周囲が1・5四方の自然石で囲まれ中には砂が敷きつめられている。
 
 
武志義民の碑(萬福寺境内)
 
武志義民の碑(萬福寺境内)
 萬福寺の鐘門を入った左手にあり、犠牲になった二人の百回忌に当たる大正5年(1916)武志村が義侠心をたたえ供養するため建てられた。
 これは、武志村と中野村が斐伊川堤防の草刈り場の権利をめぐる争いで起こった一揆である。首謀者がはっきりしないままに非農家の二人が強訴を煽動したとして捕らえられ文化14年(1817)11月9日に処刑された。